ヘッダーイメージ
 Keywords & Topics No8
37.名著探訪記~米谷隆三『約款法の理論』

 1964年11月一橋大学の文化祭「一橋祭」において次のテーマでデベートが実施された。
「約款の法源性について」(約款はなぜ法律と同じ効力があるか?)

<デベート参加ティーム>
 一橋大学法学部喜多了祐ゼミ生(3年生):Affirmative Side(肯定派)
 慶応義塾大学法学部某ゼミ(3年生):Negative Side(否定派)
このデベートの際の参考文献が米谷隆三『約款法の理論』(有斐閣 昭和29年刊)であった。

このデベートも終了し、毎日通学の帰途最寄りの中央線高円寺駅近くにある古書店「都丸書房」によく立ち寄っていた。この専門書を扱う「都丸書房」の入り口から左側の上から3段目に『約款法の理論』が在庫されていた。当時の価格は5千円であった。いつも手にしてパラパラとページをめくって拾い読みをしていた。大学卒業間際のある日に「都丸書房」に行ったら、何とあの『約款法の理論』が忽然と消滅していた。
無性に欲しくなった。

1966年一橋大学を卒業してから、保険会社に入社して以来、神保町の古書店巡りしつつあの名著『約款法の理論』を探しまわったが空振り。神保町駅近くの大型古書店の主があの名著はないが、『米谷隆三選集全3巻』(「米谷隆三選集」刊行会発行、昭和37年刊、非売品、7千円)はありますよ!と。当時の小生の初任給は2万3千円。またあの二の前を食らい先に誰かに買われてはと心配しつつも、入社最初のボーナスで大枚7千円を投じて『米谷隆三選集全3巻』を手中にした。(下記の写真)

名著『約款法の理論』(全675ページ)と『米谷隆三選集全3巻全1732ページ)』
<2017年2月27日撮影>

しかし、どうしてもあの名著が欲しい!現在であればアマゾンで検索して購入できるかもしれない。念のためアマゾン等で検索したが、現在でも新書はもちろん中古も在庫切れで購入不可能である。
大学卒業後4年ほどして、一橋大学喜多僚祐ゼミOB会で恩師の喜多先生が「神田君、あの本が再版されることになったよ。やはり需要があるのだね」と。

足掛け5年越しで念願の名著を入手できた!1970年(昭和45年)に上記の写真のとおり『約款法の理論』有斐閣、昭和45年初版第4刷発行、定価3千円) 本書は日本の私法学会で初の学士院賞受賞という歴史的価値のある学術書であり名著として約款研究のバイブル的存在である。(注1)

約款は身近な法律として重要である。携帯電話・不動産取引・保険契約・銀行取引・クレジット・鉄道運送・タクシーなど身近な取引の際に、約款を読まなくても法律と同じ効力があり拘束される。ご用心あれ!(注2)

(注1)当時東大法学部派閥の圧倒的な状況下において、一橋大学法学の雄 米谷隆三博士(立命館大学)が学士院賞を受賞出来たのは偏に京都大法学派の重鎮 末川博博士のおかげであろう。

(注2)そして、約款の法源性に関する学説・判例の議論は関東大震災の「地震保険大審院判決」(大正4年12月24日民録21輯2182頁)以来100余年間延々と続いたが、ついにその議論に終止符が打たれた。

債権関係規定(債券法)に関する規定の大半は明治29年(1896年年)の民法制定以来変更されておらず、2017年5月に約120年ぶりに民法の抜本的な改正(2020年施行)がなされた。
民法改正(債券法)の目玉の一つが、約款に関する規定を新設・整備したことである。
改正民法では、ネット取引の「同意する」ボタンを押すなどして消費者が合意した場合(たとえ読んでいなくとも)や契約内容として事前に約款が示されていた場合は、約款が有効であると明示された。他方、消費者に一方的に不利な約款内容は無効となることも明記し、消費者保護に配慮した。


38.親友きん坊と一橋大学


 小学校・中学校時代は勉強大嫌い人間であった。外ではガキ大将として元気がよかったが、教室に入ると小さくなってオトナシカッタ。中学2年生になると友人達も勉強する人が出てきて近所で遊ぶ友達が居なくなってしまった。そこで暇つぶしに少しだけ勉強したら最下位くらいの学力レベルが中順以上になり、また勉強したら上位になってしまった。

1956年(昭和31年)東京都中野区立第4中学校3年生として新しい組替えがあった。3年8組56名在籍。当時8クラスで3年生全体で約400名の生徒がいた。

3年8組でいつも学力上位争いをしていた5名の中に菊地洋敏君(きくち ひろとし)がいた。小学校は異なったが当時自転車で7~8分のところにお互いの自宅があり、毎週土日いずれかの日には相互に自宅訪問して語り合った友人であった。菊地君を「きん坊」と呼び、私神田を「かん坊」とよびあった。もう一人の友人 佐藤敏生(さとう としお)君を「さとし」と呼び合った親しい仲間であった。

いつも成績トップ争いしていた5人のメンバー。

高野輝子(都立富士高校、損保会社)、神田芳雄(都立豊多摩高校、一橋大学法学部、住友海上)、菊地洋敏(都立豊多摩高校、一橋大学商学部、キャタピラー三菱)、北村勝(都立戸山高校、東京工業大学、鉄鋼会社)、佐藤敏生(都立豊多摩高校、東京大学農学部、広島大学教授)
 
<写真 後列左 かん坊(神田)一人おいて きん坊(菊地)、隣 さとし(佐藤)、前列右 高野 1962年昭和37年当時 都立豊多摩高校OB男子と都立富士高校OB女子で長野県塩尻湖 合ハイキャンプ>

きん坊とは取り分け仲が良かった。きん坊の叔父様が東京商科大学(現一橋大学)出身で三菱重工勤務されていた関係から、中学3年生当時から、きん坊は一橋大学の名をしきりに表明していた。中学生当時の私は残念ながら一橋大学の名は未知であった。

豊多摩高校時代はきん坊とは一度も同じクラスにはならなかった。クラスは異なっても自宅近辺でいつも一緒に語り合った友人であった。当時小生の兄は東大経済学部の学生であった。私も当然東大を受験するつもりであった。ある時この東大の兄と小さなことから諍いになり、東大に嫌気がさした。高校の担当教諭に相談したところ、関東では一橋大学、関西では京大が良いのではとアドバイスを受ける。

そういえばきん坊は中学生の時から一橋大学の名前をよく出していたな!早速、図書館で一橋大学を調べると、何と中央労働員会委員長 中山伊知郎教授、ハーバード大学で活躍した近代経済学の碩学都留重人教授などそうそうたる教授陣が居られる近代経済学のメッカと言われているではないか!
それ以来、きん坊とともに一橋大学を目指しお互いに励まし合いながら切磋琢磨しあった。浪人時代はともに大学予備校の名門「一橋学院」(高田の馬場)に通ったものである。

 1962年長野県野尻湖キャンプの写真
<後列右から二人目 きん坊、前列 かん坊>

そんなきん坊とは卒業後は会社の業種も異なり、学部も異なり、部活も彼は弓道部、小生は国際部(他大学のESS)などとやや疎遠になっていた。新婚生活当時などはたまに行き来していた。
かれは議論好きであった。中学以来ズーットきん坊とはいろんな議論を尽くした。議論するとしつこくしつこく迫ってくるタイプであった。でも、決して嫌らしい議論の吹っ掛けはしない好人物である。


<写真左 きん坊、右 豊多摩高校同級生 安藤和夫君(住商) 1971年結婚披露宴控室にて>

年賀状は毎年交換しつつお互いの消息は熟知していた。またきん坊はキャタピラー三菱時代は一貫して経理畑であった。かつて、海外における生産物賠償責任保険(PL保険)の詳細について照会もあったことがある。懐かしい思い出の一つでもある。

2003年の年賀状で胃がんを手術したとの情報があった。小生はちょうど前職の損保会社を退職して、マーキュリー・マーケティング戦略研究所を立ち上げ、業界紙等への論文連載、業界会社・代理店の研修に多忙の時であった。きん坊は一旦退職したようであったが、まだキャタピラー三菱の経理関係の仕事をしていた。

翌2004年の某日、新宿で二人で会いたいと連絡がある。JR新宿駅東口の交番前で待ち合わせた。
彼は先に来ていた。遠くから見てすぐきん坊と判った。相当老化した姿であった。久しぶりの対面であった。
二人で新宿伊勢丹会館で昼食懇談を長い時間過ごした。

一旦は退職したようだが、あまり余裕のある時間がなく、海外旅行はギリシャに1回行っただけのようであり、自由人としての遊ぶ時間はなかったようだ。
もうこれが最期の会合と察知した。お別れの挨拶に来たのだ。
それから数か月後、奥様からきん坊の逝去の連絡が入った。享年63歳。合掌

きん坊の妹は私の二つ下の妹と同級であり、久しぶりに再会して、兄きん坊の生き様の知らない部分を聞いた。思った通りの誠実な人生を全うした親友に誇りを感じた。


フッターイメージ